脳裏よぎった衆院解散=戦後処理問題に足跡―村山元首相

2025/10/17 16:42配信【時事通信社】

 17日死去した村山富市氏は、旧社会党委員長だった1994年6月、自社さ連立内閣の首班に担がれ、自民党単独政権ではなし得なかった戦後処理問題で足跡を残した。政界引退後も護憲と平和を訴え続けた。 「日米安保体制の意義と重要性についての認識は、私の政権においても基本的に変わることはない」。首相就任後に臨んだ94年7月20日の衆院代表質問。非武装中立政策を放棄し、日米安全保障条約や日の丸・君が代を認めた村山氏の答弁に、本会議場は怒号と喚声が渦巻いた。 自民の政権復帰に手を貸したと野合批判を浴びた村山内閣だが、被爆者援護法制定や従軍慰安婦のためのアジア女性基金設立など戦後処理問題の解決に注力。水俣病患者救済も村山内閣ならではの成果だった。 最も力を入れたのが戦後50年の節目にまとめた村山談話だろう。これに先立つ戦後50年国会決議は、与野党から欠席者が出て、決議賛成者は衆院定数の半数にも満たず、村山氏自身じくじたる思いがあった。 自民幹部に電話するなど自ら調整に乗りだし、「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「心からのおわび」の四つのキーワードを盛り込んだ。村山氏は晩年、「内閣が一致して決めた談話だ。韓国も中国もアジアの国の皆さんも、『これで歴史問題は解消する』と言って収まった」と自賛。歴代内閣も基本的に踏襲している。 村山内閣は1年半余り続いたが、自民中心の政権であるがゆえに、政局の主導権を握ることはできなかった。「今でも悔いが残っているのは自分の手で(衆院)解散できなかったことじゃ。解散していれば小選挙区制にもならなかったしな」。記者にしんみり語ったのは、政界引退を間近にした2000年2月のことだ。 衆院解散・総選挙が脳裏をよぎったのは、首相に就任して最初の国会を乗り切った後の秋頃だったという。当時は小選挙区比例代表並立制の導入が既に決まり、新たな区割り法案が秋の臨時国会で審議される予定だった。中選挙区制での衆院解散は「ちゃぶ台返し」と言え、村山氏は「(自民党の)閣僚が署名しないとか…」。無理筋なことは百も承知だった。 トレードマークは長い眉毛。引退後も旧社会党を継承した社民党の選挙応援に請われれば足を運んだ。12年のインタビューでは「やっぱり社会民主主義を基調とした政党があっていい。いや、なきゃいかん」と退潮著しい古巣を気にかけていた。 21年、大分の自宅に電話し社民主義の今後を問うたが、耳が遠くなったせいか会話は途切れがちだった。直接声を聞いたのはこれが最後となった。(時事通信静岡総局長=前政治部長・佐々木慎)。 


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