『豊臣兄弟!』仏罰上等、魑魅魍魎渦巻く巨大なブラックボックス「大和国」を支配した、秀吉よりも恐い(?)秀長の冷徹さ
前回(第36回)の『豊臣兄弟!』では主人公・秀長(仲野太賀さん)のキャリアの頂点だったともいえる「四国攻め」が描かれましたが、1話完結でしたね。内容も秀長の大活躍というより、「武将・長宗我部元親」(磯部寛之さん)が丁寧に描かれていた気もします。
「このまま負け戦を続け、家臣たちを道連れに滅亡する未来より、かつてのように穏やかな元親に戻ってほしい……」との願いを込め、秀長が贈った色鮮やかな小袖が、修羅の道を歩んでいた元親を正気に引き戻し、停戦が土壇場で成立という演出は興味深かったです。
本当に色鮮やかな衣類を愛用していた武将といえば上杉謙信で、上杉神社(現・山形県米沢市)には、謙信公着用とされる「紫地牡丹文辻が花染小袖」や「紅地雪輪文辻が花染小袖」といった華やかな着物が遺されています。
それゆえ昭和期には「上杉謙信女性説」さえ囁かれたのですが、ドラマの元親のように、「美しいもの」を肌身につけることで気持ちを穏やかにした側面は謙信にもあったかもしれません。
私が調査した限り、長宗我部元親着用の色鮮やかな小袖などは存在しておらず、「姫若子」(姫和子)という若き日の元親の異名も宝永5年(1708年)成立の『土佐物語』が初出で、同書によると服装の好みというより、インドア派の色白で、穏やかな元親の印象を「姫」に例えただけのようですが……。
さて、このコラム連載では「怪物・秀吉」(池松壮亮さん)については散々語ってきましたが、今回からは「怪物・秀長」についても語らずにはいられなくなるでしょう。ドラマでは第1回から、ずーっと「いい人」のままの秀長ですが、「四国攻め」の直後、大和国(現在の奈良県)を兄・秀吉から拝領してからの史実の秀長は「いい人」どころか「銭ゲバの悪魔」にしか見えないのでした。
「四国攻め」終結で秀長が与えられた土地の問題点
「四国攻め」が終わるとまもなく、功労者・秀長には朝廷の最高権力者・関白に成り上がった兄・秀吉から、大和大納言の官位と、「大和」「和泉(現在の大阪府南部)」「紀伊(現在の和歌山県)」の3カ国100万石が与えられました。そして、大和郡山城が彼の新たな拠点となったのです。
大和国は、京・大坂に近いという好立地に加え、大和盆地が畿内屈指の農業生産地で、酒造、木材、茶などの商工業もきわめて盛んな土地柄でした。
しかし、大和国といえば、中世以前から藤原氏の氏寺である興福寺に代表される「宗教領主」たちが多数存在し、戦国時代以降となると「宗教領主」たちの間に、いわゆる戦国武将たち――松永久秀(ドラマでは竹中直人さん)や筒井順慶(永沼伊久也さん)などが割って入っている状態でした。
松永久秀亡きあとの大和支配者・筒井順慶は信長(小栗旬さん)の死後、新しい「天下人」秀吉にも協力的で、秀吉にとって重臣といってもよいポジションだった人物です。ところがその順慶が、天正12年(1584年)8月、秀吉と徳川家康・織田信雄(松下洸平さん・山脇辰哉さん)が激突した「小牧・長久手の戦い」の最中に急死してしまったのでした。
順慶には実子がなく、急遽、順慶の跡を継ぐことになったのが養子の筒井定次(貴堂寛之さん)です。彼は優秀な武人で、「小牧・長久手の戦い」「四国攻め」の双方で武功をあげたのですが、筒井家には養子に入ったばかり。家臣団の統率も不十分でした。そこに大和国在住のローカル勢力にあたる「国人(こくじん)」層――地侍たちの思惑も絡んで、ゴタゴタしている空気を察知し、強引に介入したのが「豊臣兄弟」だったのです。
亡き順慶とは異なり、自分たちとは縁が薄いことを理由に、「兄弟」は筒井定次を強制的に伊賀上野(現在の三重県)へ転封させてしまったのです。この時、秀吉・秀長は移転を渋る筒井定次に、「あなた(=定次)が伊賀へ移れば、これまで扱いづらかった地侍たちをあなたが直接支配し、管理できる直属家臣団に組み直すことができるよ、それはあなたの権力強化になる……」などと説得したようです。
かくして定次は箸尾(はしお)氏、布施氏といった主要国人や、十市(とおち)氏の当主・十市新二郎らだけを連れ、伊賀へ移動に同意します。しかし、地侍こと国人たちの全員が、筒井家の伊賀移転に同行できたわけではありません。
十市氏の一族の一部や、その被官――家臣・長柄氏など、筒井家の財政的理由などからリストラされてしまった人々は大和国に放置され、窮乏する者たちも見られたとのこと。興福寺の僧侶による『多聞院日記』にも、行き場を失った武士の家族の女、子どもたちが「山野に迷う悲嘆極まりない状態となった」との記述があり、嘆きの声が大和国のあちこちで聞かれたのでした。
宇陀郡(奈良県東部)の秋山氏や沢氏のように、秀長やその養子・秀保に直接仕える権利を得て、土地や知行を維持できた者もいましたが、それは例外的な幸福だったようです。
さらに史実の秀長は、自身の新たなお膝元である大和郡山以外の地域では、商工業のほとんどを行うことを厳禁するというとんでもないお触れも出しています。先述のとおり、大和国は各種商工業も盛んな土地柄でしたから、庶民たちからも大きな反発を食らいました。
しかし、秀長はこれらの不満を軍事力で押さえつけ、封殺しようとしたのです。ドラマでは、興福寺の門徒たちが宗教的理由から、秀長の打ち出した大和国の新支配ルールに反抗という設定のようですが、実際はかなり違った形で領民とはモメたわけですね。
地域経済の困窮と、「いつ一揆が起きてもおかしくない」という不穏な空気の蔓延――それが史実の秀長による大和国支配の第一段階でした。
秀吉よりも前に“刀狩り”を行った秀長の手腕
大和国には、秀長にとってさらに厄介な相手が待ち構えていました。藤原氏の氏寺・興福寺などに代表される「宗教領主」です。「宗教領主」と一口にいっても、豊臣政権への態度は一律ではありません。とくに彼らの指導者層は朝廷関係者、もしくは高位の武士たちの子弟たちで、プライドが高いわけです。
しかしその中には、かつての権力者にはなかった「豊臣兄弟」特有の危うさを察知し、潰される前のスリ寄りを試みる者もいました。
先代から継承した「多武峰(とうのみね/現・談山神社、奈良県桜井市)」の寺領保護と支援を秀吉に求めた尊朝法親王などはその1人です。現代にはない当時の常識ですが、単純に所領を継承しただけでは、権力基盤も確保されないので、法親王は秀吉に接触し、多武峰領の雑目(所領権益など)を保障する安堵状(朱印状)の発給を願い出ていました。
だからこそ、前領主・筒井定次の伊賀国移転によって国中騒然の中でもなお、法親王は秀長を出迎え、引き続きの厚遇を取り付けようと必死だったのですね。
ところが……秀吉は秀長が大和国入りしたのとほぼ同時期、天正13年閏8月、多武峰に所有する槍・鉄砲・兜・刀などの武器を提出させています。多武峰には「既得権益を認めてやるが、牙は抜かせてもらう」と、すでに「兄弟」にスリ寄ってきている手前、何をいわれてもNOはいいづらい「協力者」から先に軍事力を奪ったのです。
凡百の支配者なら「協力者」であれば大目に見てやりそうなものですが、それをしないのが彼らの特徴です。ちなみに武士以外の層からの武器没収といえば、秀吉の「刀狩り」が有名ですが、その3年前に多武峰相手の「刀狩り」は行われていました。実験感覚だったのでしょうね。
さらに天正18年(1590年)、秀長は大和の寺社統制と、自身のお膝元である郡山城下の繁栄のためと称し、多武峰の“寺院のご神体”である藤原鎌足の大織冠(=鎌足がかぶっていたとされる冠)を郡山城下へ、強制移転させています。これに対しては、さすがに祟りを恐れる激しい反抗がおき、実際に秀長も病に倒れたので、秀吉は「秀長の平癒の祈祷と引き換えに元の場所へ戻す」との撤回を余儀なくされました。逆にいうと、秀吉以上に寺社勢力に対する当たりが強く、「仏罰・神罰? かかってこい」という感じだったのは秀長だったといえるでしょう。
そして秀長・秀吉の「飴と鞭」どころか、「鞭と鞭」というしかない辣腕が発揮されたのは、大和国最大の「宗教領主」興福寺相手の一幕でした。中世以来、大和の事実上の守護(=大名)として君臨し、荘園経営から地侍の統制まで担ってきた興福寺ですが、その「宗教領主」としての息の根は、「豊臣兄弟」から命じられた「確定申告」の失敗によって止められたのです。
――とまぁ、少々トリッキーな書き方になりましたが、当時の興福寺は「子院なども含め寺領はどのくらいあるのか」を「兄弟」から尋ねられています。しかし、寺は所有地を小さく見せかけ、利権を隠し、「2万5693石」と過少申告したのでした。これは信長時代の天正8年(1580年)に興福寺が提出した「指出(さしだし)」より、8000石も少なめの申告でした。いわば脱税です。
しかし……、従来の権力者よりも数字に強いのが「豊臣兄弟」の特色なのです。サバ読みした数字を見せられた秀吉は興福寺参詣途中だったにもかかわらず怒りだし、そのまま大坂城に帰還。寺側には罰として申告書の再提出と、その後も約1万石分の不認可(=没収処置)が言い渡されました。サバ読みした分のさらに半分しか寺領を認めない!と言われてしまったのです。
その後、秀長の厳しい追加詮議が行われ、興福寺は大和国にあったほぼ全ての荘園支配権・徴税権という既得権益を失いました。天正15年(1587年)には秀長の追加命令により、興福寺本体の所領はわずか8000石にまで削られています。
それから7年後、「太閤検地」の実施を経た文禄4年(1595年)には、春日社なども入れた興福寺全体で約2万1000石が保証される状態になりましたが、えげつないこと凄まじいですね。
これまで何世紀もの間、「宗教領主」「世俗領主」、さまざまな利権が絡み合う巨大な「ブラックボックス」であった大和国ですが、「豊臣兄弟」の強権の前にすべてが解体・無力化され、新領主・秀長と領民が直接結ばれ、年貢のやりとりもダイレクトに行えるよう整備されるというシステムの見直しがなされたのです。
ドラマではこうしたすべてが「寺社や領主以外の地侍から不当な年貢を取られていた農民を、秀長が救った」的な「いい話」として描かれるのでしょうが、史実の秀長がしたことといえば、中間搾取されていた額をそのまま自分の懐にいれること。
私腹を肥やすというより、秀長にはもっと大きな目標がありました。彼が大和国の新領主となった理由は、当時まだ国内に薩摩の島津家、関東の(後)北条家など敵対勢力を残していた豊臣政権の軍事費用を調達するという目的達成のためだったのでしょう。
目的遂行のためなら、どんな批判も恐れず、どんな手段を取ることにも躊躇しない……史実の秀長の凄まじい冷徹さを感じずにはいられない一幕が、その大和国支配の辣腕ぶりから垣間見えるのでした。
(文=堀江宏樹)
