『豊臣兄弟』佐々成政“切腹”の真相、そして秀次は秀長のライバルになりえたのか?
前回(第42回)の『豊臣兄弟!』は、『ONE PIECE』のルフィ役など元気な少年役の演技で知られる声優・田中真弓さん演じる「関西のおばちゃん」が、太閤殿下こと秀吉(池松壮亮さん)ご自慢の「黄金の茶室」でおもてなしされるというすごい映像が拝めました。現存しない「黄金の茶室」ですが、実際は天皇や公家などセレブリティ専用で、庶民のおじさんおばさんには適用されなかった可能性は高いのですが……。
そして気になったのが、豊臣政権の一大事業であったはずの「九州平定」がナレーションとイラスト風のCGを使った説明だけで、するっと済んでしまったことでした。先日、撮了のニュースが入ってきた『豊臣兄弟!』ですが、たしかに放送回数も40回を超え、最終回間近なんですよね。どの要素を落として、どの要素を取り上げるかの選別が行われているのでしょうが、おそらく純粋に政治的な問題より、天下人――つまり向かうところ敵なしの「怪物」となりおおせた秀吉の専横ぶりと、それに四苦八苦させられる秀長(仲野太賀さん)という構図が際立つイベントを拾っていくつもりなのかもしれません。
さて、次回(第43回)は「殿下の刀狩り」と題し、政治家としての豊臣秀吉を代表し、戦国時代でもっとも有名な「悪策」の一つが登場するようです。いうまでもなく晩年の秀吉の専横の象徴が「刀狩令」といえるのですが、「あらすじ」によると、「国衆に一揆をたきつけた罪で、(佐々)成政(白洲迅)に切腹を命じた秀吉(池松壮亮)。二度と同じことが起きないようにと、全国に刀狩令を発する。秀長(仲野太賀)が領民に、秀吉が建立する大仏の資材として戦道具の提供を促す一方、秀次(山田涼介)は力ずくで召し上げようとする。そんな中、大名の中には秀吉の政策に不満を持つ者がいると知った秀長は、大和郡山城に家康(松下洸平)ら諸大名を招き、本音を聞き出そうと考える」。
ドラマでは秀吉の専横的な行動の一部を甥の秀次に負担させることで、秀吉を悪人には見せない仕掛けになっているようです。さらにドラマで描かれがちな秀長・秀次の対立に史実性があるのかどうか……それらについてお話する前に、どうしても触れておきたいのが、佐々成政の切腹事件の真相です。
佐々成政は一揆を「たきつけた」のか「抑えられなかった」のか
ドラマのあらすじでは「国衆に一揆をたきつけた罪」とされますが、これは史実とは明確に違います。史実の成政の罪状は「一揆を抑えられなかった責任」でした。
秀吉は成政に肥後一国を与える際、「3年間は検地をするな」と厳命していたのですが、成政が功を焦って強引に検地を進めたため、地元の「国衆」――隈部親永などの地元密着の武士で、いわゆる中間支配者層が大反発、それが大規模一揆につながったのがすべての発端です。
「検地」は彼ら国衆が仕えることになっている領主=佐々成政と、領主たちの頂点にいる豊臣秀吉にとっては当地で得られる税収の数字が明確に確保できる朗報となりえます。しかし、年貢の調達業務を背負わされた国衆にとっては悲報そのもの。農村から収められた農作物を、国衆が適当にピンハネする権利を奪うものだったからです。
かくして既得権益の甘い汁を吸えなくなった国衆たちが農民を煽動して大蜂起。それは他地域にまで広がったため、豊臣政権は鎮圧のため、九州中の大名を総動員する羽目になり、天正16年(1588年)閏5月、成政はすべての責任を負う形で切腹させられました。成政が功を焦ったことがすべての原因でしたが、もともと彼が秀吉の忠臣だったのなら、検地の強行などしなかったはずです。
史実の成政は「アンチ秀吉派」の中心人物でした。故・織田信長(ドラマでは小栗旬さん)お抱えの武士たちの中でも、名門の若者たちが集う「黒母衣衆」筆頭として知られたのが成政です。
成政の後半生は秀吉との格闘そのものです。天正11年(1583年)、秀吉が柴田勝家(山口馬木也さん)と全面対決した「賤ヶ岳の戦い」でも柴田方について秀吉と戦いました。しかし柴田の自害後は、前田利家(大東駿介さん)の仲介で秀吉に泣く泣く頭を下げ、娘を人質に差し出し、なんとか許されました。それなのに早くも翌・天正12年(1584年)、家康と秀吉の対決である「小牧・長久手の戦い」が勃発すると、またもや離反。
成政は家康と織田信雄に味方するのですが、信雄と家康が秀吉に敗北を認めた後も、成政だけは諦めず、転戦を続けた末にようやく降伏したのでした。その硬骨さをもう少しポジティブな方面で活かせないものかと思ってしまいますが、このときも織田信雄の仲介を受け、秀吉に謝罪。
命だけは救われたものの、越中に与えられていた領地は没収、大坂に据え置かれて秀吉のお伽衆――ただの相談役という名の飼い殺しを受けました。お伽衆とは、秀吉による(元)名士たちを集めたショーケースのような存在です。前回、とつぜん(元)公方さまこと、足利義昭(尾上右近さん)が出家した姿で秀長の前に再登場しましたが、史実の義昭(正確には出家したので昌山)もお伽衆の列に加えられています。佐々成政もそのメンバーに選ばれたのは名誉でしたが、義昭のように引退したか、織田信雄のように居場所がなくなり、引退したも同然の扱いを受ける人と並べられるのが癪だったのでしょう。
そんな成政が、念願の領主業務に返り咲けたのが、肥後国(現在の熊本県)への転任だったのですが……今回も結末は悲惨でした。
ゆえに検地強行は秀吉の顔色をうかがった、というより、成政は領主としての自分の才能を秀吉に見せつけたかったのではないでしょうか。しかし秀吉から「やめろ」といわれていた検地の早期強行で「大炎上」。肥後国中に一揆は広がり、収拾が付かなくなった成政は領主としての責任を負わされ、ついに切腹に追い込まれたのです。
そして、この肥後国人一揆のような反乱を今後発生させないため、秀吉が天正16年7月に発令した……というか、権力で押し切って出したと考えられるのが、「刀狩令」だったのです。当然のように、大反発が予想されました。
しかしここでも、不満のガス抜きを試みる秀吉の狡猾さが光るのです。同令の条文には、没収した刀や脇差・槍・弓などは「今度大仏御造立の釘・かすがいに被仰付候事」と明記されています。つまり、秀吉が京都東山に建立を始めた方広寺の大仏(そして大仏殿)の建材としてリサイクルするから、現世だけでなく来世まで救われるぞ~、などと持ちかけ、信心深い農民たちを丸め込んでしまった背景が見えるのでした。ドラマの秀吉以上にポピュリズム全開なんですね。
ただ、歴史学者の藤木久志氏らの研究によるところの、「この刀狩令によって農村から武器が完全に消えたわけではない」という事実は重要です。害獣駆除用の鉄砲や防犯用の刀は村に残されました。つまり秀吉の「刀狩令」は農村生活者から武器の完全没収を目指したものではなく、「兵農分離」。つまり「刀を差して歩けるのは武士だけ」と限定し、第二、第三の秀吉・秀長たち「豊臣兄弟」が出現し、天下が引っかき回されることを予防しようとしたのだと思われます。「兄弟」が戦国時代の特異点であったことは何度もお話しましたが、自分たちがガラスの天井(?)を突き破って出世した後は、積極的に新しい芽は摘んで捨てていくスタイルへの変更も憚らないのが、彼らのとんでもないところなのです。
つまり、いまだに曖昧であった武士と農民の区別を明確にし、武士が農民を支配・監督する存在に仕立て上げるための法が「刀狩令」だったのでした。大げさな表現になりますが、秀吉がおのれの権力を駆使し、“社会の構造”までを変えた。変えざるをえなかったということなのです。それゆえ、切腹させられた佐々成政はあの世でニンマリしたかもしれません。成政にしてみれば、あれほど憎んでいた秀吉に、ここまでの労を強いることができたのですから。
しかし、ドラマで描かれたように「秀長が領民に優しく説得する一方、秀次は力ずくで召し上げようとする」という部分や、秀次は秀長をライバル視していたというような描かれ方は、ドラマオリジナルといえるでしょう。
この時期の秀次はまだ20代中盤(一説に24?25歳)の若者でした。たしかにドラマで描かれている時系列より2年程前の天正14年(1586年)3月16日、イエズス会の宣教師・コエリョの報告にもあるように、秀吉の後継者は秀長という見方が世間に広まっていたことも事実です。
しかしそれに異論を挟めるだけの実績は若き秀次にはありません。秀次が、秀長をライバル視できるほどの立場にはいなかったのです。あろうことか正親町院(上皇)崩御の直後に狩りを楽しんだとかいう理由で摂政関白をもじった「殺生関白」と揶揄されたことを皮切りに、その後も数々のエピソードをでっちあげられたのが豊臣秀次という人物の悲劇です。
そしてそれらを踏襲しつつも、多少毒抜きしたのが、本ドラマにおける秀次像なのですね。本ドラマにおいては、主人公・秀長を完全な善人にするための影を背負わされたのが秀次ともいえるのです。
(文=堀江宏樹)
